日本現代詩人会 詩投稿欄 第30期入選作品
日本現代詩人会 詩投稿欄 第30期 (2023年7月~9月)において拙作「虹」
「虹」を書いた6月はプライド月間で、 LGBTQに関する書物やコミュニティに接する機会があったり、 プライベートでも考えさせられる出来事があったりした。 この詩は、 キリスト教書店大賞2023で栄えある大賞を受賞した「 LGBTとキリスト教 20人のストーリー」を読んだ私なりの返答、 苦悩を告発した人々への応答として書いた。
現代詩人会に提出した後、 なんかちょっと小綺麗にまとめ過ぎたかも、と思い始めていた。 本に書かれていた差別に対して、もっと怒っているべきだった、 苛烈でなければならなかった、感傷に浸っている場合か! という思いがふつふつと沸き上がっていた。
しかし根本さんの選評を読んで、はっと気づかされた。 そもそも私は誰に宛ててこの詩を書いたのか? それは教会や社会の不寛容性よりも、あるいは神よりも、 地上のすべての恋人たち、祈りをかくしている人たち、 それぞれにかなしみを抱えた人たちだったのだ。
だから、これで良かった。
私がディスっているのは古びた教会であって教会全体ではない。 私たちは新しい歌を主に向かって歌う(詩編 96:1)。教会に響くのはいつだって、 生まれ直した魂の群れが歌う新しい讃歌なのだから。
祝祭は野の向こうにある。すこし歩けば、必ずある。 そんなに遠くじゃない。
それにしても、 真の解釈は作者の意図の先を見ることに在るのだな... 私の見えない私が見出だされ、 私の言語化できない私が言語化された、 そんな素晴らしい評をいただいた。 私もこのように詩が読みたいし楽譜が読みたい。 尊敬しかないです。
虹
あなたの手は森を撫でる風
その手にふれた時
もうひとりのかなしいわたしに
わたしのかなしさが
合わさって
光環を成した
地上のすべての恋人たちに
同じようにいくつもの
完全な日食があるように
ゆるさないのは
文字だけが 神と
信じる者たちだけ
ゆるさないのは
妻夫だけが 家と
信じる者たちだけ
古びた教会の屋根の下では
祝福されなかった愛を
四季はよろこび
野の向こうには祝祭がある
天は町に火など降らせず
灰色にほほえんでいる
こんな日々を愁いながら
やり過ごすのは終わりだ
と言って
手をのばしても掴めない
燃えるような色彩を
旗にして歩いた
まだ 口を閉ざされている
わたしたちがいる
まだ 武装の解けない
わたしたちがいる
重ねてきた掌と掌に
しまいこんだ祈り
虹は灯る
まっすぐな くずれやすい橋の袂に
昏い雨の跡を かくして
【根本正午氏による選評】
かつて飛行機の上から虹を見たことがあります。 虹はじつのところ橋ではなく「円」なのだということに、 そのとき気が付かされました。 この詩を読みながらそれを思いだしたのは、 ひとはたとえば飛行機に乗ることがなくとも、 見えないものを見ることができるのだという気づきが詩にあったか らでしょう。第一連にある「あなたの手は森を撫でる風/ その手にふれた時/もうひとりのかなしいわたしに/ わたしのかなしさが/合わさって/光環を成した/ 地上のすべての恋人たちに/同じようにいくつもの/ 完全な日食があるように」を読むとき、 読者が感じるのは恋人同士の喜びではなく、 日食の月と太陽のようにけして交わらない(そして一見、 ふたつは触れ合っているかのように見える) 関係性のかなしみではないでしょうか。詩はこれらふたつ( またはそれ以上) の交わることのないものたちを巡って展開してゆきます。「 ゆるさないのは/妻夫だけが 家と/信じる者たちだけ」などの連を読むと、 詩でかたられている虹はいわゆるレインボーフラッグ運動でもある ことを窺うことができますが、 私はこの詩の焦点は私たちの間にあるどうしようもない距離や不和 に当てられていて、その間に存在し得る・ し得ない橋をかけることの難しさについてかたられているのだとい う読みをしました(「まっすぐな くずれやすい橋の袂に/昏い雨の跡を かくして」)。もし、口を閉ざすことを止められれば、 あるいは武装を解くことができるのならば、 私たちはわかりあうことができるのでしょうか。その答のために「 重ねてきた掌と掌に/しまいこんだ祈り」 があるのかもしれません。

