見えない花火はまだあがっている
今日6月28日は詩人・吉原幸子氏の誕生日。
私が最も好きな詩人で、それは今後も変わらないだろう。
生きていれば91歳、お会いしてみたかった。
先週、ラ・メールの編集をされていた棚沢永子さんが出演されていたTwitter Spaceを聴いた。
棚沢さんはそのなかで、吉原さんの「日常」という詩を読まれていた。
「日常」―吉原幸子 Facebookページ (ご子息の吉原純さんが運営) より
世界ぢゅうを泣きつくすには
ヒトの一生ではとても足りない
こんなに重い詩なのに、愚かな私は最初に読んだとき「テトリスが出てくる詩って面白いな」くらいにしか思っていなかった。(だからこそ覚えていたのだが)
テトリスって、子供の頃にやってたときは全然気がつかなかったけど、ロシア(ソ連)発祥のゲームだったんですね。
全クリするとコサックダンスする人が出てきて、ロシアの宮殿に花火が上がって終わるようで...そういやBGMもコロブチカとか、ロシア民謡だったな。
今、改めて「日常」を読んでみると、ロシア・ウクライナ情勢を思うことと重なり、より一層胸が痛い。詩を読むとき、音楽を聴くときや絵を観るときも、書き手の時代のことを考えるけれど、書き手が(おそらく)想像しなかった、読み手の時代がもたらす痛みを感じる。
花火はまだあがっている。遠いようで近くの、日常の向こうの傷だらけの日常、はじけた火薬の匂いが、心に煙る。

